historical study

経営者の経営者が読むべき歴史書のヒントになればと、経営・ビジネス視点で歴史を調べて、メモとして残していきます。

ローマ帝国は分業が進んだから滅びた?国際分業の断絶が歴史を動かした2つのケース(A.D.476とB.C.1177)

高度に発達した国際分業・物流ネットワーク、サプライチェーン網(供給網)がひとたび遮断されると、社会にどのような影響が起きるか。2020年を経た我々はその困難さを知っているが、A.D.476とB.C.1177の二つの歴史的ケースは、それが文明に致命的な影響、つまり崩壊まで至る打撃を与える可能性があることを教えてくれる。

A.D.476:西ローマ帝国の崩壊

まずA.D.476。これは有名な「西ローマ帝国の滅亡(と一般的に言われる)」年だ。

説明の前提として、ローマ帝国の「崩壊」に関する研究史をざっと振り返っておく。西ローマ帝国の崩壊後のヨーロッパについては、「ゲルマン民族の侵入で古代ローマ帝国が『崩壊』した暗黒時代」というものが伝統的解釈であり、世界史の教科書でもそのような印象で書かれているものが多い。

もっとも、20世紀後半にピーター・ブラウンという研究者が登場して以降、3~8世紀の西洋史研究のポイントは、「西ローマ帝国の『崩壊』」という伝統的解釈ではなく、後期ローマ帝国から中世へ徐々に『変容』していったという連続性・継続性にシフトした。特にキリスト教が西欧に普及したという精神面の部分では前向きな時代として解釈されるようになった。

しかし『ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』 (以下、パーキンズ)では、陶器の生産流通の分布など考古学的証拠に着目し、「いやいや流石に物質面では非連続的でしょ」(意訳)ということで、ブラウン以降の流行の学説を批判している。

考古学の成果を紐解くと、ローマ時代には、地中海を覆う広域的な、輸送と商業の洗練されたネットワークが存在していたことがわかる。そしてそれは、ある時期に消滅し、その水準が回復するのは数百年~千年近い時間を経過した後だという。

ローマ人は、日用品を含む物品を、きわめて高品質、しかも莫大な量で生産した。(中略)ローマ時代の北イタリアの農民は、ナポリ近郊地域からもたらされた食器で食事をし、北アフリカからもたらされたアンフォラ(=古代に使われていた壺:筆者注)に液体を貯蔵し、瓦で葺いた屋根の下で眠った。(パーキンズ:138頁)

 

ローマ陶器の三つの特徴は並外れているうえ、西方においてはその後(=西ローマ帝国崩壊後:筆者注)何世紀ものあいだ存在しなかったものである。第一に、すばらしい質と相当に統一された規格。第二に、はなはだしい生産量。第三に、広く普及したこと。これは地理的(ときには何百マイルもの距離を超えて輸送された)だけでなく、社会的(つまり富者のみならず貧者の手にも届いた)にもあてはまる。私たちが最もよく知っているローマ世界の地域、すなわちイタリア中央部・北部においては、この水準の洗練は、ローマ世界が終焉を迎えたのち、約八百年後、すなわち十四世紀までおそらく再び目にすることのないものである。(パーキンズ:139頁)

 

アンフォラが満載された難破船があまりにもたくさん見つかるので、ある二人の学者は近年、紀元後二世紀の地中海交易の取引量に匹敵するレヴェルに戻るのは、ようやく十九世紀になってからのことではないかと考えている。私が強調したいのは、ローマ時代には身分の低い消費者でさえも高品質の品物を入手でき、生産と流通が複雑で洗練されていたことである。(パーキンズ:154頁)

パーキンズは「現在世界の特徴である消費者の熱狂とグローバル化した生産は存在しなかった」(156頁)と現代との差異に留意するよう訴えているが、古代に存在していたローマの豊かな生活は、現代のような国際的な分業とサプライチェーンのネットワークに支えられていたことがわかる。

もっとも、ひとたびそのネットワークが(たとえば「ゲルマン民族の侵入」のようなイベントによって)寸断・破壊されると、豊かさは消失し、長い時間を経ないと元の水準には戻らない。

ローマ時代と同様に高品質な大量生産を反映させるには、膨大な数の人々が、多少とも専門分化した立場でこれに携わらなければならない。第一に、一個あたりの原価を安くすることが可能なだけの量の品物を高い水準で製造できる、熟練した職人が存在しなければならない。第二に、これらの品物を効果的かつ広汎に流通させるために、輸送と商業の洗練されたネットワークが存在していなければならない。最後に、支払いのための金銭とそれを払おうという意思を持った消費者からなる、大きな(ゆえに通常は散在する)市場が不可欠であった。

 

さらに、このすべての複雑さは、貨幣や道路、船、荷馬車、道路沿いの宿屋といったインフラを維持することで製造と商業を円滑に運んでいた、他の何百という人びとの労働に依存していた。経済的な複雑さのおかげで、人々は大量生産された物品を入手できるようになったが、そのために自分が必要とする品物の多くを、ときには何百マイルも離れた場所で働く専門家なり準専門家なりに依存するようになった。

 

この関係は、安定した時代には大変よく機能した。しかし何らかの理由で生産と流通のネットワークが崩壊すると、あるいは消費者自身がもはや専門家から購入するだけの余裕がなくなってしまうと、消費者はきわめて脆弱な状態に置かれることになった。専門分化した生産が機能しなくなったからといって、すぐに自給自足に効率よく立ち戻れるわけではない。(中略)帝国の終焉に際して起こった経済的崩壊の激震は、ほぼ間違いなくこの専門分化の直接的な結果であった。ポスト・ローマ期の世界は、経済的に単純なレヴェルへと逆戻りし、ローマ時代の直前のころよりも落ち込んだ。物品の移動はほとんどなく、家屋は貧弱で、最も基本的な製品しかなかった。高品質の物品を広く社会に普及させることでなしとげられたローマ時代の洗練は、地域内の技術とネットワークを破壊した。(パーキンズ:202頁)

この古代ローマの例ように、高度に専門分化、国際分業が進んでいた世界で、(蛮族侵入のような災害により)ネットワークの崩壊が起こると、完成品の供給が停止し、一気に文明が衰退してしまう。というのは、東日本大震災や新型コロナウイルス禍を経験した我々も強く共感できるストーリーだろう。

そしてこれは、古代ローマだけでなく、もっと過去から繰り返されてきた現象のようだ。

B.C.1177:海の民による地中海世界の破壊?

『B.C1177─古代グローバル文明の崩壊』(以下、クライン)によると、西ローマ帝国の崩壊から遡ること1500年ほど前のB.C.1177にも、国際的なネットワークの破壊が、文明の崩壊につながったと思われる証拠が残っている。

  • エジプトのアマルナ文書(前14世紀半ばのアメンホテプ3世とアクエンアテンの時代)
  • シリア北部のウガリト文書(前13世紀から前12世紀初め)
  • トルコのハットゥシャ文書(前14世紀から前12世紀)

これらの粘土板には当時の人々の書簡が含まれており、そこには、後期青銅器時代のエーゲ海・東地中海地域に様々なネットワークが同時に存在していたことが記録されている。張り巡らされた外交、商業、輸送、そして通信のすべてが、当時のグローバル化された経済を円滑に機能させていた。

このように経済のグローバル化が進んだエーゲ海・東地中海地域の後期青銅器時代は300年以上も続いたが、その時代は突然、終焉を迎える。

しまいには、この地域ではあらかた、文明そのものが消滅したようなありさまだった。それ以前の数世紀間に達成された進歩発展は、すべてではなくともその多くが、ギリシアからメソポタミアにかけての広大な地域で消え失せてしまったのである。そして次の(鉄器時代:筆者註)文明が登場するまで、少なくとも1世紀、場所によっては3世紀以上もかかっているのだ。これら滅びた王国の最後の日々には、地域全体が恐怖に支配されていたのはほぼまちがいないだろう。シリア北部のウガリト王国から送られた粘土板の手紙に、その明らかな実例を見ることができる。(クライン:25〜26頁)

何が起こったのか。粘土板の文書から指摘できる当時の状況に関する「客観的事実」は以下の3つだ。

  • 数多くの独自の文明が、前15世紀から前13世紀にかけて、エーゲ海・東地中海地域で繁栄した。ミュケナイおよびミノア、ヒッタイト、エジプト、バビロニア、アッシリア、カナン、キュプロスといった国家が、活発な交易と外交を繰り広げていた。
  • ただ明らかに、前1177年ごろからその直後に、エーゲ海、東地中海、エジプト、近東において多くの都市が破壊され、当時の人々が知っていたような後期青銅器時代の文明と生活は終わりを告げた。
  • これまでのところ反論の余地のない証拠は提示されておらず、だれ、またはなにがこの大惨事を引き起こし、ひいては文明の崩壊と後期青銅器時代の終焉をもたらしたのかはわかっていない。

従来、後期青銅器時代の文明は、謎の民族「海の民」の移動(侵入と侵略)によって、劇的に崩壊したという説が主流であった。そし前1177年とは、海の民が初めてエジプトに押し寄せ、エジプト王ラムセス3世が戦った年である。

もっとも「海の民」を構成する集団は流動的で、さまざまな地域、さまざまな文化圏からやって来た多様な集団の寄り集まりであり、兵隊だけでなく家族ごと押し寄せる移民団のようなものだったと考えている。紀元前1177年をターニングポイントの年としているが、この侵入者たちは、かなり長い期間にわたって、何度も波のように押し寄せてきたのである。

クラインは、最新の考古学的な知見をもとに、「海の民」だけに原因を求める単純な見方を否定する。崩壊の原因については「海の民」以外に内乱、自然災害、干ばつ、システム崩壊、戦争地震、気候変動など様々な説が唱えられてきたが、それらの相乗効果とみている。いずれの問題も地域の経済に深刻な影響を及ぼしかねず、それが下層階級の不満につながり、支配階級への反乱を引き起こす原因となりえた。

そしてクラインは、相乗効果のひとつとして国際的な交易ルートの遮断を挙げる。

外部の侵略者によって国際的な交易ルートが遮断されるというのは、外国の原材料に過度に依存した脆弱な経済にとっては悪夢である。キャロル・ベルは、青銅器時代の錫の戦略的重要性について、今日の世界でいえば原油に匹敵するとたとえているが、これはここで議論している状況を端的に表すたとえだと言っていいかもしれない。(中略)結果として内乱が起こらなかったとしても、交易ルートが遮断されれば、ピュロスやティリュンスやミュケナイなど、ミュケナイ文明に属する王国にはただちに深刻な影響が及んだだろう。これらの王国では、青銅を製造するために銅と錫の両方を輸入しなくてはならなかったし、しかもそれだけでなく、黄金や象牙やガラス、黒檀、香水原料のテレビン樹脂などの原材料も大量に輸入していたと思われる。(クライン:227頁)

 

ウガリトは破壊されたあと二度と再建されなかったが、それは交易ルートの断絶によって国際的な交易システム全体が崩壊したため、と考えるのが最も論理的で不備のない説明かもしれない(徹底的な皆殺しをべつにすれば)。(クライン:231頁)

 

これまで見てきたように、300年を超す後期青銅器時代、すなわち前1500年ごろから前1200年以後にすべてが崩壊したときまでにわたり、地中海地域は国際化された複雑な世界の舞台となっていた。そこではミノア人、ミュケナイ人、ヒッタイト人、アッシリア人、バビロニア人、ミタンニ人、カナン人、キュプロス人、そしてエジプト人すべてが相互作用によって、今日以前にはまずめったに存在しなかったような、きわめて国際主義的なグローバル化された世界システムが生み出されていた。まさにその国際化こそが、青銅器時代を終わらせた黙示録的災厄を招きよせたのかもしれない。近東、エジプト、ギリシアの文化は、前1177年ごろには極めて複雑にからみあい、相互依存を強めていたように思われる。そのため、ひとつがつまずくとほかも引きずられて倒れる結果になってしまった。(クライン:259頁)

なお、クラインは後日談として、もう一つ面白い史的事実を披露している。国際化した後期青銅器時代は上記のように崩壊するが、その混沌を抜け出して、新たな世界秩序を作りあげる民族集団のひとつがイスラエル人(=ヘブライ人)なのだ。

10年前にテルアヴィヴ大学のイズレイル・フィンケルシュタインの唱えた説が、いまでも最も妥当性が高いように思われる。彼の考えでは、「海の民」の移住はただ一度のできごとではなく、長い年月をかけて何段階にも分かれておこなわれたのであり、第1段階が始まったのは前1177年ごろ、ラムセス3世の治世初期で、最後の段階が終わったのは前1130年ごろ、ラムセス6世の時代であるという。(クライン:240頁)

 

この時期にカナン(=イスラエル:筆者注)に新しい人々が入ってきて住み着いたのには疑問の余地はないが、破壊だけを意図した軍事的な侵略者というより難民に近く、つねに地元民を攻撃して征服しようとするとはかぎらない。というより、たんに地元民に交じって住み着いてしまうことが多かった。(クライン:243頁)

崩壊のあと

繰り返しになるが、高度に専門分化、国際分業が進んでいた世界で、(蛮族侵入のような災害により)ネットワークの崩壊が起こると、完成品の供給が停止し、一気に文明が衰退してしまったという歴史的事実は、東日本大震災やコロナを経験した我々には既視感すらあるかもしれない。

一方、当時と大きく違うのは、通信・テレワーク環境やSaaSの普及で、情報や知識のやり取りは継続的にできるようになっているところ。物流ネットワークが停止しても、法人活動は割と何とかなっている。現代文明が非連続的に変化(あるいは崩壊)するとすれば、それは物流と情報のネットワークが同時に崩壊するときなのだろう。まさにデスストランディングの世界観だ。

しかし、世界は崩壊しなかった。いや、もしかしたら崩壊は始まっており、これから始まる相乗効果的な戦争や飢えにより、徐々に文明は衰退に向かっているのかもしれない。

では、崩壊した後に何が起こるのか。

ギリシアにおいて、この最終的な破壊がどれぐらい同時並行的に起こったものかはわからないが、その崩壊がすべて終わったあとには、明らかに「王宮はなく、文字もなく、また行政組織もすべて崩れ去って、最高統治者すなわちワナクスという概念は古代ギリシアの政治制度の枠内にはもう存在しなかった。」(クライン:262頁)

文字すらも滅んでしまったため、ポリス=都市社会が現れるまでの数百年間、ギリシア地域は文字記録のない暗黒時代を迎えることになる。かつてその地域で栄えた古代文明の記憶そのものが、伝説となり、旧約聖書にわずかに名前が出てくることを除けば、19世紀から20世紀初頭に「発見」されるまで存在自体がほとんど忘れさられていたのだ。

何より興味深いのは、ローマ時代には広く見られた類の、無造作な落書きがほぼ完全に姿を消したことである。(パーキンズ:240頁)


はるかに単純な世界では、読み書きへの喫緊の必要は衰退し、同時に、世俗のエリート箸生地能力を持たねばならないという社会的圧力も消え失せた。ポスト・ローマ期の西方で識字能力が普及したのは、聖職者間に完全に限定されるようになった。(パーキンズ:241頁)

西ローマ帝国の崩壊後、西洋では「複雑な社会とそれが生み出すもの」、たとえばその代表的なものである識字能力とそれが生み出す多様な表現は、限られた層のみの特権となった。

 

<参考文献>

ブライアン・ウォード=パーキンズ(著),南雲泰輔(翻訳)『ローマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』(2014)
エリック・H・クライン(著),安原和見(翻訳)『B.C1177─古代グローバル文明の崩壊』(2018)